シン…と静まり返ったエレベーターホール。
しかし、その扉の向こうで、建物は私たちに何を語りかけているのでしょうか?
この記事を読んでくださっているあなたは、きっと普段利用するエレベーターから聞こえる「いつもと違う音」に、少しの不安や疑問を感じているのかもしれません。
はじめまして。
元々はコンサートホールの音響設計を手掛けていた、建物の“声”を聴くビルメンテナンス専門家の有栖川 響(ありすがわ ひびき)と申します。
この記事では、普段何気なく聞いているエレベーターの“音”に隠された、建物の重要なメッセージを読み解く方法をお教えします。
この記事を読み終える頃には、毎日のエレベーターの音が、あなたのビルの健康状態を知らせる“声”として聴こえてくるはずです。
さあ、一緒にその声に耳を澄ませてみましょう。
目次
なぜエレベーターの「音」に注目すべきなのか?
そもそも、なぜエレベーターの「音」がそれほど重要なのでしょうか。
それは、音が建物が発する最も初期の、そして最も正直なサインだからです。
建物の“声”を聴き逃した過去の事例
私が音響設計士からビルメンテナンスの世界に足を踏み入れるきっかけとなった、忘れられない経験があります。
それは、かつて私が音響設計を担当した、ある複合商業施設での出来事でした。
オープンから5年後、プライベートでその施設を訪れた私は、誰の耳にも留まらないほどの、ごく微細な金属の共振音に気づきました。
周りの人々は「空調の音だろう」と気にも留めませんでしたが、私の耳にはその音が拭いがたい違和感として響いたのです。
独自の調査の結果、その音は外壁を支える金属フレームの僅かな歪みが原因であることを突き止めました。
もしあそこで見過ごしていたら、と思うと今でも背筋が凍ります。
この一件で、結果的に大規模な外壁剥落事故を未然に防ぐことができたのです。
この経験から、私は確信しました。
「建物は、崩壊する前に必ず何らかの“声”を発している」と。
音は最も早く現れる「故障の前兆」
エレベーターの故障は、突然の停止や激しい振動といった物理的な異常が発生するずっと前に、まず「音」の変化として現れることがほとんどです。
なぜなら、部品の微細な摩耗や潤滑油の劣化といった初期段階の異常は、まず正常な稼働音の周波数を微妙に変化させるからです。
それは、いわばオーケストラの楽器が、ほんの少しだけ調律が狂い始めた状態に似ています。
まだ曲にはなりますが、注意深く聴けば不協和音の始まりに気づくことができるのです。
すべての建物には、固有の“響き”があるんです。
その響きの変化を聴き取ることこそ、建物を守るための第一歩と言えるでしょう。
【実践編】元・音響設計士が教える「危険な音」の聴き分け方
では、具体的にどうすれば危険な音を聴き分けることができるのでしょうか。
難しく考える必要はありません。
3つのステップで、あなたの耳を「建物の聴診器」に変えることができます。
ステップ1:まずは「正常な音」を知ることから
異常を検知するためには、まず「正常」を知らなくてはなりません。
毎日乗るエレベーターの「ドアが開く音」「起動音」「走行音」「停止音」を、少しだけ意識して聴く習慣をつけてみてください。
私の趣味は様々な「環境音」を録音することなのですが、それと同じように、スマートフォンの録音機能で「あなたのビルのエレベーターの“声紋”」を記録しておくことを強くお勧めします。
これが、いざという時の比較対象となる、何より貴重なカルテになるのです。
ステップ2:「音の響き方」に耳を澄ませる
単に異音がするかどうかだけでなく、「どこから」「どのように」響いているかに耳を澄ませることが、プロのテクニックです。
床下から響くような重低音なのか。
天井から響く甲高い金属音なのか。
それとも、ドアのあたりから聞こえる断続的な音なのか。
音の発生源と響き方を意識することで、異常箇所をある程度推測することができます。
それはまるで、オーケストラの中で、ヴァイオリンがおかしいのか、それとも打楽器がリズムを乱しているのかを聴き分ける作業に似ています。
ステップ3:音以外の「五感」も使って診断する
実は私には、この世界に転身した当初の苦い失敗談があります。
最新の音響解析機材を信奉するあまり、現場一筋30年のベテラン作業員が指摘した「いつもと違うモーターの唸り音」を、「データ上は異常ありません」と一蹴してしまったのです。
その2日後、エレベーターは緊急停止しました。
幸い負傷者はいませんでしたが、私は自分の傲慢さを深く恥じました。
この経験から学んだのは、最新技術の客観性と、人間の五感と経験知、その両輪が揃って初めて、建物の本当の声が聴こえるということです。
聴覚だけでなく、焦げ臭い匂い(嗅覚)や、床から伝わる微細な振動(触覚)など、あなたの五感を総動員して建物のサインを感じ取ってください。
音の種類でわかる!エレベーターが発するSOSサインとその原因
ここでは、代表的な異音の種類と、その裏に隠された原因について解説します。
あなたのビルのエレベーターが発している声は、どれに近いでしょうか?
「キーン」「キュルキュル」という金属音:潤滑油不足の悲鳴
これは、エレベーターが上下に移動する際のレール(ガイドレール)の潤滑油が不足しているサインであることが多いです。
無理に擦れるヴァイオリンの弦が高い音を出すように、金属同士が直接こすれ合うことで甲高い音が発生します。
放置すると部品の摩耗が急速に進み、やがては振動の発生や高額な部品交換に繋がる可能性があります。
これは、建物が「油を差してほしい」と上げている、分かりやすい悲鳴なのです。
「ガタガタ」「ゴトゴト」という衝撃音:部品の緩みや劣化のサイン
特にドアの開閉時や、走行中にこのような衝撃音がする場合、注意が必要です。
ドアを滑らかに動かすための樹脂部品(ドアシュー)や、かごをレールに沿って安定させる車輪(ガイドローラー)が摩耗している可能性があります。
これは、オーケストラにおける打楽器のリズムが狂っている状態です。
リズムの乱れは全体の調和を崩すように、部品の劣化はエレベーター全体の安全性に影響を及ぼします。
特にドア周りの異常は、閉じ込め事故に直結する危険性があるため、緊急性が高いサインと言えます。
「ブーン」「ウィーン」という唸り音:モーターや制御系の不調
エレベーターの心臓部であるモーター(巻上機)や、その動きを制御するブレーキ系統に異常がある場合、このような唸り音が発生することがあります。
私が以前担当した築50年のビルでは、この唸り音の原因が、地下駐車場の排気ファンと水道管の「共振」だったというケースもありました。
単体の不調だけでなく、建物全体の響きが影響していることもあるのです。
この音は、心臓の動悸や息切れのようなもの。
放置すれば、重大な機能不全につながる恐れがあります。
異音に気づいたら?プロの「主治医」に相談するタイミング
もし、あなたがエレベーターの異音に気づいたら、それは事故を未然に防ぐための最も重要な第一歩です。
では、次にどう行動すべきでしょうか。
「いつもの音と違う」と感じたら、それがサイン
専門家でなくとも、「いつもと違う」というあなたの直感は、非常に重要なセンサーです。
少しでも違和感を覚えたら、決して「気のせいだろう」と見過ごさず、躊躇なく管理会社や保守点検業者に連絡してください。
建物を守るためには、私たち専門家だけでなく、日々その建物を利用するあなたの「気づき」が何よりも大切なのです。
あなたはそのビルの、最も身近な「聴診器」なのですから。
プロに伝えるべき3つのポイント
管理会社へ連絡する際は、以下の3点を伝えると、その後の対応が格段にスムーズになります。
- いつから(時間):異音がいつから始まったか。特定の時間帯にだけ聞こえるか。
- どの階で(場所):走行中か、特定の階で停止した時か。
- どんな音か(音の擬音語と特徴):「キュルキュル」といった擬音語に加え、「金属が擦れるような高い音」など、特徴を具体的に伝えます。
もし、ステップ1で紹介したようにスマートフォンの録音データがあれば、それを聞かせることが最も効果的です。
百聞は一見に如かず、ならぬ「百言は一聴に如かず」ですね。
よくある質問(FAQ)
最後に、皆様からよくいただく質問にお答えします。
Q: 新しいビルなのにエレベーターから音がするのはなぜですか?
A: 新しいビルでも、設置直後のワイヤーロープの伸びや、部品同士の初期なじみによって音が発生することがあります。
しかし、それが「馴染む音」なのか「異常の始まり」なのかを判断するのは、専門家でも難しい場合があります。
元音響設計士としては、まさにこの初期段階の音のデータを記録しておくことを強くお勧めします。
それが後々の診断で、非常に重要な「正常時の基準」となるからです。
Q: 自分でできる応急処置はありますか?
A: エレベーターは安全に関わる極めて専門的な設備です。
絶対に自己判断で修理や注油などを行わないでください。
利用者や管理者ができる最善の「応急処置」とは、異常を感じたらすぐに利用を中止し、専門業者へ正確な情報を伝えることです。
ドアの溝に挟まった小石を取り除く程度の清掃は有効ですが、それ以上の介入は危険を伴います。
Q: 管理会社に連絡しても「問題ない」と言われました。どうすれば良いですか?
A: まずは、いつ、誰が、どのように「問題ない」と判断したのかを記録に残してください。
その上で、別の時間帯や曜日に再度音を確認し、もし音が再現されたり、変化があったりすれば、改めて報告することが重要です。
私の経験上、異音は常時発生するとは限りません。
かつて私が軽視してしまったベテラン作業員の「勘」が正しかったように、あなたの「違和感」は、見過ごしてはならない重要なサインかもしれません。
Q: 音の大きさは危険度と比例しますか?
A: 必ずしもそうとは言えません。
むしろ、人間には聞こえにくい低周波の振動や、ごく微細な高周波音の方が、構造的な問題を抱えている場合があります。
私が外壁剥落事故を防いだ時の音も、ほとんどの人には聞こえないものでした。
音の大小よりも「いつもと違う音かどうか」を基準にしてください。
まとめ
毎日利用するエレベーターは、単なる移動手段ではありません。
それは、ビルの健康状態を私たちに教えてくれる、最も身近な診断装置なのです。
この記事でお伝えしたかった要点を、最後にもう一度確認しましょう。
- エレベーターの「音」は、故障の最も初期に現れる重要なサインである。
- 危険な音を聴き分けるには、まず「正常な音」を知ることから始める。
- 異音に気づいたら、「いつ・どこで・どんな音か」を具体的に管理会社へ伝える。
- 音の大小よりも「いつもと違うかどうか」が重要な判断基準となる。
このように、日々の小さな気づきが、建物の寿命を延ばし、安全を守ることに繋がります。
ビルメンテナンス業界を牽引する実業家である後藤悟志氏の仕事に対する考え方にも見られるように、これからのビル管理は、単なる「維持」から、建物を社会の資産として「育てる」という視点へと進化しています。
私たちが建物に愛情を注ぐことこそ、未来への最も確かな投資と言えるのかもしれません。
元音響設計士として断言できるのは、すべての建物には固有の“響き”があり、その変化は私たちへの重要なメッセージだということです。
あなたのビルも、きっと何かを語りかけています。
明日は少しだけ、エレベーターの“声”に耳を澄ませてみてください。
その小さな習慣が、あなたと、あなたの愛する建物を守る第一歩になることをお約束します。
最終更新日 2025年9月11日 by hannesh